稲垣えみ子さん『表現は苦しみ、苦しみを共有する手段としてのアート』

企画展『絵画の詩学』関連事業として、講師に稲垣えみ子さんをお招きし、歌集『滑走路』を読む―日常の詩学を開催しました。
毎日の生活を大切にすることで自分らしい人生を構築されている稲垣さんの暮しから見える豊かさと日常にある表現についてお話し頂きました。
講演後に、稲垣さんが高浜と瓦をどう感じたか、表現をどう考えているかなど3点質問し、お答え頂きました。

——高浜港駅から当館まで(鬼みちを)歩いてお越し頂きました。高浜の印象を教えて頂けますか。

(稲垣さん・以下略)とても穏やかで、平和な空気が流れていて、これはなんだろう?と思ったのですが、歩いているうちに、なるほどこのまちの方々は、建物を大切にされているのだ、だからこそのこの雰囲気なのだなあと思いました。
家が大きいとか小さいとか豪華とか質素とか新しいとか古いとかそういうことに関係なく、すべての建物が丁寧にきちんと手入れされているのがすっごいです。どうしてこんなことができるんだろう?古くからの職人さんのまち、ということと関係があるのかもしれません。
何かに手をかけるということは言うほど簡単なことではなく、一度やっておしまいというものでもなく、そこには揺るぎない「暮らしの佇まい」というものがなければ、このようなことを来る日も来る日もやり続けることはできません。それは突き詰めて言えば、どんな日であってもその日1日をおろそかにせずきちんと生きる、ということなんじゃないかな? そうか職人の心意気って突き詰めて言えばそういうことなのかしら? と思ったことでした。
私自身、まだまだそんなふうにやりきれていないことがたくさんたくさんあります。なので、そうかなるほどこのようにして暮らしていけば良いのだな、それが本当の豊かな暮らしというものなのだなと、と大きな指針のようなものをいただいた気がします。ありがとうございました。

——三州瓦になにか感じましたか。感じたとすればどのようなことでしょうか。

実は昔から「鬼瓦」というものが大好きでした。怖いけれど可愛い。その大きな矛盾を一つの瓦にぎゅうっと押し込めるなどなかなかどうしてできることではありません。それを作る方がたくさんおられる町って、不思議だし、すごいなあと。

——ご講演では、ご自身の生き方・暮らしをお話頂くだけではなく、若き歌人の短歌を読み深めて頂きました。稲垣さんにとって短歌や絵画、映画など“アート(表現)”とは、どのようなものでしょうか。

どうなんですかね? 講演のテーマでもありましたが、表現というのは突き詰めていけば作品のことではなくて、それを作り出さずにはいられなかった人の心の叫びなのだと思います。もっと言えば「苦しみ」なのではないかとも思います。
人は喜びではなかなか繋がれませんが、同じ苦しみを経験した人とはぐっと近くなれるものです。そうした苦しみを共有する一つの手段が、いわゆるアート作品と呼ばれるものなのではないかなと思っております。

稲垣えみ子さん 『表現は苦しみ、苦しみを共有する手段としてのアート』 - 高浜市かわら美術館